『神は愛よりも偉大』の投稿を再読して
S
12/31 (日) 13:08

Sです。

先が見えない闘病生活をまだ続けております。次々と降りかかる試練で気力が随分落ちました。神を想い全てを受け入れる努力まで今年は疎かになり、「なんで私が…」という昔の思考に陥ることが増えました。“自分の撒いた種を刈り取るためには耐え忍ぶしかない”と何度も学んだはずなのに、情けない話です。死に対する恐怖心は消えたものの、未だ真理を情報として頭で理解しようとするから霊的進化が遅いのだと自覚はしております。

大晦日の今日、ふとした思いつきで、虎さんが今年3月に投稿された『神は愛よりも偉大』を再読してみました。『不滅への道』(G.カミンズ著)は数回読んだはずなのに、第23章の内容をすっかり忘れていました。以下、再読後に感じたことを少し書かせて下さい。

《神は変化するようなものではなく、宇宙の背後に控える観念である》《神は愛であるという思考は、神の概念を限定し、神を人間の言葉の中に閉じ込めて人格化する》《神は愛であるという真の意味を理解したのはナザレのイエスだけである》《有限の心を持った私たちは、「神は愛よりも偉大である」という言葉で神を想い描いた方がよい》等々、久しぶりに霊的な学びに触れてとても心地よかったです。

確かSBは、「神に会った霊人は一人もいないが、霊性が上昇するにつれて神の愛をより強く感じるようになる」と述べていたと思います。この神の愛も私たちが持っている利己的要素に彩られた『移ろいやすい愛』のことではありませんから、神の前では、私たちの『移ろいやすい愛』はすべて関係ないことになるのでしょう。利己的要素を含まない愛の本質は知り得ませんので、カミンズ女史が勧めるように、私もこれからは「神は愛よりも偉大である」と想うようにします。

また、虎さんが投稿末尾に載せられた《疑問を持ったら問題が解決するまで疑問を持ち続けて下さい、必ず解決します》という教えも胸に響きました。そして、どこかで読んだ以下のような話を思い出しました。自分が信じきれずに頭の隅で未だに疑問を感じている「内なる神」を、その疑問が解決するまで意識を向けて求めなさいと言われているようでした。

〜 もしかしたら、神の導きとは、敬虔になる、そして純一になる心境にしむけるもので、人を祈りに導くものなのかもしれません。神の存在を色々説いても、それは人間の言葉に過ぎず、そこに神は生きていません。自分自身が諸々の思いから離れて、私という意識に収斂されてゆくもの、つまり理屈抜きに意識が向いてしまうものを感じられれば、自分の中に神と同質のものを戴いていることに気づくことでしょう。 〜

悲惨な出来事や悪質な行為を毎日ニュースで見ていると、自分の試練も含めて、この地上には不平等だけが平等に与えられているのだと思えてきます。それは、きっと私だけではないでしょう。真理側から見れば平等なのですが、その背後にある法則が私たちの理解を超えているのですから仕方ありません。ですが今日、虎さんの投稿を再読して、霊訓書籍を日常的に繰り返し読み続けることが、神への想いを疎かにしないために必要なのだと感じました。

以上です。

霊感のない私ですが、何かモヤモヤしたものがすっと消えたような気がしましたので投稿させて頂きました。神から離れたことで燻りだした「なんで私が…」という思考も少し治まったようです。虎さん、ありがとうございました。

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