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私は今の自分の立ち位置でのことしかわかりませんので、参考になるかどうかわかりませんが、述べさせていただきます。 以前、私は「自分は絶対に正しい」と思っていました。それは過去の成功した経験則がそう思わせていたのだと思います。 しかし霊的なことを学ぶにつれて、そうではない、ということがわっかってきました。 霊界にはヒエラルキーという霊性による絶対的な階層があり、下のものが上に行くことは出来ません。 ところがこの地上界は「ごった煮」の世界ですから、様々な階層の人が生活をしています。 もちろん国や地域などである程度の棲み分けはされていますが、霊界のようなはっきりとした棲み分けはありません。 そう考えますと、私たちが日常で出会う人も様々な霊性の方がいることになります。 霊性の同じもの同士は同じ価値観でしょうが、違う霊性の人はたとえ家族だろうと意見や思いが違うのは当たり前です。 つまり人間は、すべての人がその人の霊性において「正しい」ことを考え、言い、行っているということになります。 ですから4~5年前からですが、、私は私の前に現れる人に対して「どんな人の話も聞き、その人を認めよう」というように自分を変えるようにしてきました。 「すべての人を分け隔てしない」ということは「裏表のない」自分を造らねばなりません。 そのために必要なことは「正直になる」ということだと気づきました。よく正直とは自分に対して正直になることである、と説く人がいますが、そうではありません。 天に対して、神に対して「心をハダカにする=すべてをさらけ出す」ということだと思ったのです。 私たちはよく日常でうそをついたり、ごまかしたり、また、弱い人には強く、強い人には弱く、というように人によって態度を変えたりしています。 しかし、「いつも正直な自分」であるように心をコントロールすれば、誰にでも同じ態度で接することが出来る、ということを私は学びました。 そのために最初は出来るだけ、「人を相手とせず、天を相手とする」ようにしました。 人が相手だと思うと腹が立ちますが、天が相手だと腹を立てても仕方がありません。 そうしている内に、どのような人の話でも親身に聞くことが出来るようになってきました。 もちろん、地上にいる限り「完全」にはほど遠いですが、それでも「常に正直な自分でいる」ように努力することにより「すばらしいこと=真理」を体験出来るようになりました。 真理とは、レタスの種をまけばレタスがなる、という普遍的な真理です。 私は「正直になる」ことにより、「(悪)愚痴」を言わなくなりました。そして「怒」らなくなりました。 しかし、最近は、「神の愛」をもっともっとほしいと 思うようになってきました。 裏返せば、私にはまだまだ「隣人を愛する」ということが出来ていないのです。 どこまで行っても修行ですね。
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